栃木県生まれ、
栃木県育ち。

高校を出るまでずっと地元栃木に住んでいた私は、色々な意味で井の中の蛙でした。 私は小さい頃からゲームが好きで、私の中で”遊ぶ”といえばゲームをすること>でした。 運動が苦手で、スポーツもあまり上手くできなかった自分にとって、ゲームでスコアを伸ばしたり、タイムを縮めたりすることがとても嬉しいことでした。 今も昔も、私は一人用のゲームを好んでプレイするため、友達はそこまで多くいませんでしたが、それでも自分なりに工夫してなんとかやっていけました。 学校での成績はそこまで優れず、けれども下のほうでもなかったため、特に上を目指そうとか、そういったことは考えなかった自分がいました。
中学までの勉強は自分にとってそこまで難易度が高いわけでも低いわけでもなく、少しだけ手ごたえがあるなという程度でした。 ただ、興味の湧かないことに対する記憶力や意欲があまり芳しくない自分にとって苦手科目だった社会と国語にはとても苦戦した記憶があります。 けれども、高校受験では通っていた塾のサポートもあって、暗記科目であった社会が一番高得点をとれた科目になりました。
人間、やればできるんだな~と、漠然とした自分への期待が膨らんだ瞬間でもありました。


平凡な、でもどこか
特別な高校生活

私は高校に入って初めて、スマートフォンを持ちました。早い人で中学生の頃から持っていたという人もちらほらいたのですが、おそらく私の同年代の人のほとんどが高校生からだと思います。 中学で習った内容のおさらいから始まった高校の授業は、一見簡単に思えました。ですが学年が上がるごとに内容の難易度が跳ね上がっていきました。 栃木県立佐野東高等学校は普通科の高校で、文系理系の選択があり、私は迷わず理系選択をし、念願だった物理基礎を学び始めます。 案の定、今までイメージや文章でしか理解していなかった自分に、計算を求めるのは早すぎました。 物理が好きで、けど赤点ギリギリというよくわからないことが起きていました。
実は私は数学が大の苦手で、最初は四則演算+αくらいが限界でした。 物理基礎が物理になり、内容も応用的なものになっていくにつれ、数学も物理も少しはできるようになりましたが、何を思ったか調子に乗った私は数学の科目選択で数ⅡA・ⅡBではなく数Ⅲを選んでしまい、初めてのテストでは過去最低点数の7点を取ることができました。もちろん100点満点です。 なんであのとき...と一瞬は思いましたが、今になってあの時の自分の選択は間違いではなかったかもしれないと正直思っています。 数Ⅲは今までの数ⅠA数ⅡBとは打って変わって、多次元的な構造を理解する必要がありました。元々図形問題が得意だった自分は、次元が増えても問題ないと思ったのでしょう。先述の通り全く太刀打ちできませんでしたが。 しかしながら数Ⅲを通して見た景色は、自分の価値観に新しい次元を追加したような、そんな感覚にしてくれる領域だったと思います。 得意な教科もありました。前々から、私は英語ができ、特にリスニングに関しては期末テストで上位に食い込むこともありました。 ですが残念ながら文法や記法を覚えるのが苦手だったため、補習を受けることに何度かなってしまったこともあります。 こればかりは、あの時もっと真面目に勉強するべきだったと思っています。

佐野東高校には、中学生の頃に入っていたソフトテニス部に似たテニス部がありましたが、私は運動が苦手だったというのもあって理科研究部に入部届を提出しました。 当時理科研究部は2種類あり、生物班と科学班のうち、科学班として活動しました。元々人数があまり多くなかった部活だったため、現在に至るまで存続しているかと問われたら答えづらいですが、入部当時の人数は、新入部員含めおおよそ16人でした。 このうち3年生は受験のため、夏休みと共に部活を卒業、事実上10人に満たない少人数での活動が主でしたが、実際に手を動かしたり現象を観察したりすることが好きだった自分にとっては願ってもない部活動でした。 2年生に上がり、夏を迎えようとしていた頃、新しい部長の就任をどうするかの話になりました。正直、自分の中でそういった立場を経験して見たいという怖いもの見たさと、面倒そうだからやりたくないという気持ちの両方がありました。 結果、満場一致で私が新しい部長を務めることになり、嬉しい半面、不安と周りからの期待から来るプレッシャーを感じたのを鮮明に覚えています。 化学室では、様々な実験や体験をすることができました。ただ、心残りなものを挙げるとするならば、化学の授業でできなかった炎色反応を科学部の活動として大々的にできなかったことが残念でした。 今でも化学室から見える景色を鮮明に思い出すほどには、いい思い出になりました。
頼りない部長ではありましたが、無事に部長としての役目を果たし、新たな部長の座を下級生に託し、理科研究部科学班部長としての役目を終えることができたと思います。


夢に見た
大学生活

私は中学2年生あたりの頃から、日頃の勉強に嫌気が差して、こんな何の役に立つかもわからないよくわからない学校の勉強なんかよりずっと、”大学で自分の思う通りの、自分が好きな分野の勉強だけがしたい”、なんていうことを考えていました。
さて、その夢が叶うとき、とは行きませんでした。
私が大学受験で選んだ道は、曲がり曲がって工業でもなく理学でもなく物理学でもなくデザインの分野でした。 なぜそのようなことをしたかと言われたら、大の勉強嫌いな私には、到底大学受験など無謀だったのです。 しかしながら、私は昔から図形問題やらなにやらが得意だった身であって、自分用に簡単な画像の加工やシンプルなロゴの制作をしてみたり等、昨日今日思いついた進路ではなく、れっきとした理由がありました。 勉強が無理なら、芸術で勝負する。そう決心した自分は、ひとまずデザイナーになる、という漠然とした理由を持って私立大学である東京工芸大学芸術学部デザイン学科へ入学します。 最初の1年は、周りのレベルの高さに圧倒されつつも、自分と似たような境遇の友達ができたことで何とかやり過ごします。そして、問題は2年生へ進学当時、新型コロナウイルス感染症拡大の影響があり、世間はリモートワーク、リモート授業をメインにするという異例の事態が発生しました。 芸術分野の経験値が圧倒的に少なかった自分には、必修科目のデッサンや、単位取得のため取ったイラストレーションの授業が少し、いや、かなり苦痛でした。 昔から筆を取って紙に絵を描くということがそこまで好きではなかった自分には、デッサンもイラストレーションも無理がありました。そこから自分はとうとう、授業を休むようになっていってしまいました。 もちろん、嫌だった記憶ばかりではありません。1年生の時に取った、ナムコ(現在のバンダイナムコエンターテインメント)のゲーム”パックマン”を立案、デザインした岩谷徹氏によるゲーム学という授業は、聴いていてとても関心した記憶があります。 他にも色彩学や心理学、カメラの扱い方、写真の撮り方を学べる授業など、面白いと思った授業は多々ありました。当然、そんな好き嫌いをしていれば、習得単位数が少なくなるのは当然、私はついに2年生を再び送ることになってしまいました。 当時私は東京で一人暮らしをしていたというのもあり、それを咎める人は誰もいませんでした


空白の2年間、
そして

大学を自主退学し、仕事も決まらないまま何もしない一日を何度も繰り返し、このままでは何も変わらないと思う半面、このまま何もしないことが続いてほしいと思う自分もいました。 当然ながらそんな夢のような話は上手くいくはずもなく、何度も何度も家から追い出すぞと言われ、焦燥感に苛まれながらも2年という長い年月を過ごしました。 私がついに変わろうとしたきっかけ変われるかもしれないと思ったきっかけは、2023年6月に短期でニュージーランドホームステイに行ってみないかと母親から申し出があったことです。 唐突なオファーに正直驚きましたが、昔から英語圏の国に行ってみたいと思っていた自分は、この機を逃すまいと急いで準備をし、ついに6月、1か月という期間でただ一人、ニュージーランドへ向かうことになりました。 向かった先は途中クアラルンプールを経由した先のオークランド国際空港。到着先で目的地まで送ってくれるはずのドライバーが到着していないというアクシデントもありましたが、無事にホームステイ先であるモリンスヴィル(Morrinsville) という町にある 今回のホームステイでは、ケンブリッジ高校でのボランティアとして、生徒の授業の様子を見守りながら、先生のお手伝いをするという感じで、まるで自分が小学校や中学校で出会ってきた教育実習生になった気分でした。 私の英語力は正直に言えば可もなく不可もない、むしろ辛うじて日常会話ができるレベルではありました。知らない単語も多く、何度も聞き直したりというのも稀ではありませんでした。 しかし現地で出会った先生方には、"You're English is very good!"と言ってもらえて、自信が付きました。

開いたキャリーケースの中で寝る猫の写真
ホームステイ先のホストファミリーの一員、猫のマグナス(愛称はマギー
ニュージーランドは昔イギリスの植民地化の影響もあって、ニュージーランドに住む人のほとんどがイギリス訛りの英語を話すため多少聞き取りづらくはありましたが、そこまで苦ではなかったと思っています。 色々ありましたが、何とも代えがたい素晴らしい経験をしたと感じました。 そうして、長いようで短い約一か月のホームステイでのミッションを全うし、待機時間含め約24時間のフライトをもって無事に終わりを迎えました。 そこからの数か月間、紆余曲折はありましたが、
現在私は大原簿記情報ビジネス専門学校の一生徒として日々勉強に励んでいます。


未来の自分へ
伝えたいこと

すべてがうまくいっていたわけじゃない。素晴らしい道のりを歩んできたとも言わない。けど、これだけは忘れないでほしい。 今、この瞬間に、必死に変わろうとしていた自分が存在していたことを。 そして、思い出してほしい。 これから起こる出来事は、自分にとって辛く厳しいことかもしれないが、過去に幾度も乗り越えてきたことを。